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AIが暴いた「創造」と「欺瞞」、日本写真大賞取消の裏にある、アートと倫理の境界線

2025年11月、日本の写真界を揺るがす出来事が起きた。「第42回埼玉県写真サロン」で見事に最優秀賞を受賞した作品「俺の頭だぞ!」が、突如としてその栄誉を失ったのだ。理由は――それがAIによって生成された疑いが浮上したためである。
写真界では長年、「瞬間を切り取る力」こそが写真家の命とされてきた。だが、AIがその瞬間を“創り出せる”ようになった時、私たちはどこに“芸術”と“倫理”の線を引くべきなのだろうか。

作品は、一見するとユーモラスで完成度の高い一枚だった。カエルの頭にトンボがちょこんと止まる、まるで童話の一場面を切り取ったような光景。審査員たちはその構図と表現に感嘆し、743点の応募作の中から堂々の1位に選んだ。昨年9月には埼玉県立近代美術館でも展示され、さらに朝日新聞の埼玉版にも掲載されるなど、作品は一時“話題の写真”として注目を集めた。

しかし、公開から間もなく、ネット上で不穏な声が上がり始めた。
「この写真、どこかで見たことがある」「海外のAI画像サイトに似た構図があった」――そんな指摘が相次いだのだ。SNSユーザーたちはAI画像生成ツールで生成された類似作を比較し、カエルの質感や背景の違和感光の反射の不自然さなどを根拠に疑念を深めていった。やがて、AI検証コミュニティの一部がこの件を調査し、類似点を指摘する投稿が拡散。数日で炎上の様相を呈した。

主催者である全日本写真連盟埼玉県本部と朝日新聞社は事態を重く受け止め、作者に確認を求めた。その結果、作者は「自分で撮影したものではない」と認めた。だが、その一方で、「AIで生成した」と明言することは避けたという。
つまり、AIが関与していたかどうかは最終的に確認できなかった。それでも主催者は、「本人の創作でない以上、受賞は認められない」として、賞の取り消しを決定した。

主催者は謝罪コメントを発表し、こう述べている。
「主催者として深くお詫び申し上げます。今後はAI生成画像への対応策を検討してまいります。」
この“AI問題”は、もはや技術の問題ではなく、アートと誠実さの問題へと変わりつつある。

今回の事件が投げかけた問いは、単純な“規約違反”にとどまらない。AI時代における創作の定義そのものを揺るがしている。
写真という表現手段は、長らく「現実を写す」ことに価値を置いてきた。だが、AIの登場によって、「写す」ではなく「生成する」ことも可能となった。AIはカメラを持たずして、現実のような“瞬間”を作り出す。そこに“作者の意図”があれば、それは創作なのか? あるいは、AIに頼ることで創作性は消えるのか?
今回のケースは、その問いを社会全体に突きつけている。

興味深いのは、主催者が「AI生成と断定できない」としながらも、“非オリジナル”という一点で受賞を取り消したことだ。つまり、AIかどうかは問題の核心ではなく、「自分の手で創ったか否か」こそが判断基準となったのだ。この線引きは、これからのクリエイティブ業界全体にとって大きな前例となるだろう。
もし今後、AIがアーティストの「助手」として共存していくなら、どの部分までが“人の創作”で、どこからが“AIの生成”なのか。写真、デザイン、音楽、文学――すべての分野で、その境界が問われることになる。

ネット上では、作者に対する批判と同時に、「AIが悪いわけではない」という冷静な声も上がっている。
あるユーザーは、「AIが使われたとしても、それをどう活かすかが創造性だ」とコメントした。一方で別のユーザーは、「AI生成を明示せずに“写真作品”として応募するのは欺瞞だ」と断じている。
この分断こそ、AI時代の文化的混乱の象徴である。テクノロジーが進化するほど、私たちは“創作の定義”を再発明し続けなければならないのかもしれない。

今回の事件は、写真界だけでなく、芸術の信頼性そのものを問う出来事となった。AIが作り出す美しさと、人間が捉える真実。そのどちらに価値を見出すかは、これからの私たちの選択に委ねられている。
ひとつ確かなのは、AIが「創造の在り方」を根本から変えつつあるということ。そしてその変化は、便利さだけでなく、倫理と信頼を試す時代の幕開けでもある。

私たちは今、AIという鏡の中に、自らの創造と欺瞞の姿を見つめている。
写真は“真実を写す”ものだった。しかしこれからは、“真実を問う”ものになるのかもしれない。

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