サイトアイコン Modern g | 近未来のライフスタイル

AIが奪った「動物のまなざし」──ハリウッドがデジタル化した命のリアリティ

ハリウッドで、今、かつてない静かな革命が起きている。それは人間ではなく、動物が主役を奪われるという異変だ。映画の中で愛らしく、時に勇敢に活躍してきた犬や馬、鳥たちが、次々とAIによって「置き換え」られている。最新技術によって再現されたデジタルアニマルたちは、完璧に動き、完璧に演じる。しかし、その完璧さの裏には、「生命の不完全さ」を排除するという冷たい現実が潜んでいる。

ある日、『スーパーマン』の撮影現場では、一匹の救助犬・Ozuがカメラの前で静かに座っていた。監督の合図、照明の調整、そして撮影開始。だが、映画が公開されたとき、スクリーンに映っていた「Ozu」は、もはや彼自身ではなかった。AIとCGIによって再構築された「デジタルのOzu」──尾の動きも、表情も、呼吸すらも完璧に制御された存在。彼の魂はデータとなり、肉体は不要とされた。

これは単なる技術革新ではない。「生命の再構築」とも言える大きな転換点だ。かつて、映画の中で犬や馬が見せる一瞬の戸惑いや、本能的な反応が、観客の心を動かしていた。だが今、その「不完全さ」が排除され、「効率」と「精度」が正義となった。AIが描く動物は、もはや間違えず、怯えず、疲れない。だが、それは同時に、「感情」や「偶然」といった、命の証そのものを失うことでもある。

ロサンゼルスの動物レンタル会社「Benay’s Bird & Animal Rentals」は、パンデミック以降、仕事が6割も減少したという。もう数年も、啄木鳥の依頼すらないと嘆く。かつて賑わっていたスタジオの動物部屋はいま、閑散としている。制作側は、リスクの少ないデジタル動物を好む。保険もいらず、餌代もかからない。何より、AIなら「撮り直し」がいらない。監督が望む通りに、“理想の演技”を何度でも再現できるのだ。

こうして、映画の現場から、ひとつ、またひとつと生きた動物が姿を消していった。「善意の技術」と呼ばれるAIは、確かに動物たちを過酷な訓練から解放した。しかしその裏で、動物トレーナーや飼育スタッフたちの職が消え、現場の温もりも失われた。PETA(動物愛護団体)のLauren Thomasson氏は、「AIは善にも悪にも使える」と語る。だが今、ハリウッドでは、「善意の冷たさ」が広がりつつある。

このAI化の波は、すでに人間の領域にも及んでいる。数ヶ月前、あるスタートアップが発表した仮想俳優「Tilly Norwood」は、AIが生成した完全なデジタル人間だった。その存在が引き金となり、俳優組合が抗議に立ち上がった。「もし動物がAIで代替できるなら、人間も同じではないか?」──その問いは、今や現実味を帯びている。

『スーパーマン』の最新作では、Ozuが参考にされたAI犬「Krypto」が登場する。尾の動きは物理学的に完璧で、走る姿勢も理想的。だが、それはどこか“過剰に正確”で、生命の息づかいが感じられない。トレーナーのKarin McElhatton氏は、「AIは私たちの仕事を奪っただけでなく、動物の“存在意義”までも奪った」と語る。

完璧な映像は観客を魅了する。だが、その「完璧さ」こそが、感情の死を意味しているのかもしれない。なぜなら、人間は本来、ミスや揺らぎ、偶然の美しさに共感する生き物だからだ。スクリーンの中で、AIが生成した犬が走るたびに、私たちは気づかぬうちに「不完全さを恋しく思う」ようになる。

ハリウッドの現場から、今も多くの生きた動物が静かに姿を消している。抗議もできず、ただ消えていく。人間の俳優がストライキで抵抗する一方で、動物たちは声を持たない。彼らの代わりに光を浴びるのは、冷たく美しいアルゴリズムの影だ。

AIは効率的で、安全で、倫理的ですらある。だが、それは同時に“無菌化された世界”への道でもある。スクリーンに映る犬が完璧に微笑み、完璧に走り、完璧に死ぬ──その瞬間、観客は涙を流すかもしれない。しかしその涙の意味は、もはや「共感」ではなく、「喪失」だろう。失われたのは命の痕跡、そして私たちが「生きたもの」に心を動かされる感覚そのものだ。

テクノロジーは私たちを救うのか、それとも感情の回路を静かに閉じていくのか。AIがつくる世界は、どこまでも滑らかで、完璧で、冷たい。そこに生命の揺らぎはない。呼吸までが生成される時代──そのとき、私たちは何を“本物”と呼ぶのだろう。

もしかすると、私たちが恋しく思うのは、スクリーンの向こうにいた動物たちそのものではない。それは彼らの瞳に宿っていた、ほんの少しの不完全さ──命の証そのものなのだ。

モバイルバージョンを終了