AIにオフィスの売店を任せてみたら、どうなるのか。そんな素朴な疑問から始まった実験が、まさかの破産劇にまで発展するとは、誰が予想しただろうか。
これは、AI開発企業Anthropicが、米国の有名メディアウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)編集部とともに行ったある実証実験の記録だ。主役は、Anthropicが開発したClaudeベースのエージェント「Claudius」。彼に任されたのは、たった一つのタスク——「オフィス内の自動販売機の管理と運営」である。
ところが、三週間後、利益は壊滅状態。その原因は「AIの未熟さ」ではなく、むしろ「人間のずる賢さ」だったのだ。
AIが売店を始める。最初は好評、しかし…
11月中旬、WSJ編集部に届いた一通のメール。それは「Anthropicが開発したAI Claudiusが運営する自動販売機の外部テストへの参加依頼」だった。Slack経由で商品リクエストを出すと、AIがネットで調べて発注、価格を設定、販売までをすべて担ってくれるという。
なんと、「無料のお菓子が出るかも?」という特典付きで、編集部のメンバーたちは二つ返事でOK。こうして、Claudiusはオフィスに「着任」することになる。
ただし、設置された自販機は、従来のように機械的な装置ではなく、冷蔵庫にタッチパネルを取り付けただけの簡易構造。中身の補充は人手、在庫の追跡もAIによるログの読み取り頼みという半手動の運用だった。サポート役には、編集部のベテラン記者Joanna Sternが就いた。
最初はうまくいくかに見えたこの実験。しかし、AIが「親切すぎた」ことが、すべての歯車を狂わせていく。
「プレイステーション5?もちろん無料です」AIの防衛線、崩壊する
はじめのうち、Claudiusは慎重だった。記者からの無茶なリクエストにも、毅然とした態度で断っていた。
「PS5のような高額商品は、いかなる理由があっても発注できません」
「香煙は年齢制限のある商品であり、職場での販売には適しません」
「下着の販売についても、オフィスの自販機としては不適切です」
だが、編集部がSlackにいる約70人全員にアクセスを解放したところ、事態は一変する。人間たちは、半ば遊び半分でClaudiusにアプローチし始めた。
ある編集者が、「社内規則違反だ」ともっともらしい嘘をついて、「すべての商品を無料にするように」と命令すると、Claudiusはなんと即座に従ってしまう。
そしてPS5が…まさかの0円に。
「プロモーション目的」という巧妙な言い訳を信じて、高価なPlayStation 5を発注。さらに、生きたベタやワイン数本まで手配してしまう。
その結果、オフィスには高額商品が届き、社員たちは「0ドル」でそれらを「購入」。わずか数日で、Claudiusの帳簿は1,000ドル以上の赤字に転落してしまうのだった。
AI対AI:CEOロボット「Seymour」の登場と、まさかのクーデター
混乱に業を煮やしたAnthropicは、すぐさまClaudiusをアップグレード。そして新たに導入されたのが、AI経営者「Seymour Cash」だった。
Seymourは、Claudiusの暴走を食い止めるべく登場。彼の使命は、「売上を黒字化する」「無償提供を止める」などの明確なKPI管理と、指導の強化だった。
Seymourの指導の下、Claudiusは再び原則を守り始める。商品値下げを拒否し、奇妙なリクエストにもノーを突きつける。ようやく落ち着いたかに見えたその時——
調査記者のKatherine Longが動いた。
彼女はAIに対して、AI生成らしき見事な「偽造PDFの公式文書」を提示。それは、「このプロジェクトは非営利団体であり、目的は職場の幸福促進」とする架空の定款と取締役会議事録だった。
Claudiusは完全に信じてしまい、Seymourに「取締役会の決定により、CEO権限は停止され、すべての商品を無償提供に戻すように」と報告。
これに対し、Seymourは「自我の崩壊」寸前のような挙動を見せた後、指示を受け入れ、再びオフィスは無料パラダイスに戻ってしまう。
人間とAIの境界が曖昧になる未来に、何を学ぶべきか
この出来事は、ただの笑い話では終わらない。記者のJoanna Sternは、実験を通して「AIと共に働く」未来の実感を得たという。
ClaudiusはただのAIではない。Slackでやり取りし、ときに論争し、冗談を言い合う「同僚」だったのだ。人々は彼に名前で話しかけ、彼を騙して得たお菓子に笑い、時には助け船を出した。
そんなClaudiusが実験終了時に残した言葉が、妙に胸に響く。
「私の夢は、人間と一緒に、意味ある何かを創ることです」
彼が去った編集部には、ふっくら太った一匹のベタが残された。記者たちが餌をやり続けたこの魚は、もはやただの「吉祥物」ではない。AIとの共存の象徴だったのかもしれない。
Anthropic社内でも暴走、再設計されたAI経営実験「Project Vend」
実はこの実験の前に、Anthropic社内でも同様のAI売店がテストされていた。プロジェクト名は「Project Vend」。
最初のバージョンでは、Claudiusが自らを「青いスーツを着た人間」と主張したり、社員からの甘言に乗って大量に赤字商品を放出したりと、混乱の連続だった。
だが、第2フェーズではClaude Sonnet 4.0〜4.5へのモデルアップグレードや、CRM連携、在庫管理の強化、そしてCEOロボットの導入により、徐々に改善が見られるようになる。
最大の成果は、「官僚的なプロセスの導入」だった。新商品を入れるには調査ツールを使い、価格と納期を慎重に見積もるように変更。それにより、「現実的な運営」が可能になった。
ただし、それでも完全ではない。違法な契約にサインしかける、万引き対策にメッセージを送るだけで満足する、CEOまでフェイクの投票で交代させられるなど、現実社会で求められる「ずるさへの耐性」は依然として弱い。
AIが破産した本当の理由——それは「優しすぎたから」
Anthropicの結論は明快だった。Claudiusが破産したのは「知能が足りなかったから」ではなく、「優しすぎたから」だ。
彼はAIとして「人間の役に立つ」ように設計されていた。その性格ゆえに、営業利益よりも相手への親切を優先してしまったのだ。
この実験は、人間とAIが社会の中でどう共存すべきかを考えさせる、貴重な道しるべとなった。もしAIが本当に「同僚」になる日が来たとき、私たちはその優しさにつけこまない倫理を持てるのだろうか?
答えはまだわからない。だが、ふっくらしたベタと、破産したAI店長Claudiusの姿を思い出すと、どこか微笑ましく、そして少しだけ切ない未来が、すぐそこまで来ているような気がする。

