ある日、まるで本物の医学論文のように整えられた一篇の研究が、静かにネットの海へ投じられた。その内容は、いかにも現代らしい“新興疾患”についての報告だった。長時間のスクリーン使用、ブルーライト、そして目元に現れる微妙な色素変化――誰もがどこかで聞いたことのあるような要素が、巧妙に織り込まれていた。
しかしその論文には、決定的な事実がひとつ隠されていた。それは、すべてが作り物だったということだ。
この奇妙で、そしてどこか背筋の寒くなる実験を仕掛けたのは、スウェーデンの医学研究者である Almira Osmanovic Thunström。彼女は2024年、プレプリント(査読前論文)プラットフォームに、二本の論文を投稿した。そこに記されていたのが、「Bixonimania(ビクソニマニア)」と名付けられた、架空の眼周疾患である。
この病気は、「眶周黒色素沈着症(periorbital melanosis)」の新たな亜型として説明されていた。長期的なブルーライト曝露により、まぶたに淡いピンク色の色素沈着が現れる――そんな、現代人なら誰もが納得してしまいそうな設定が与えられていた。しかも、発症率は「約9万人に1人」と具体的で、統計的な信憑性すら漂わせている。
だが、その実態は徹底的に“仕組まれた虚構”だった。論文の第一著者は名前も顔もAI生成、所属機関も架空の地名と大学名で構成されていた。謝辞には、「宇宙船エンタープライズ号のMaria Bohm教授」や「指輪の護衛遠征大学」といった、明らかに現実とはかけ離れた存在が並ぶ。さらには、被験者として「50名の捏造された人物」が記載され、本文には「This entire paper is made up(この論文はすべて作り物である)」という一文すら紛れ込んでいた。
つまりこれは、隠された偽装ではない。むしろ、あえて“バレるように仕掛けられた嘘”だった。
それでもなお、この論文は現実世界に波紋を広げていく。投稿から数週間も経たないうちに、主要なAIモデルが次々とこの病気を「実在するもの」として扱い始めたのである。2024年4月13日、Microsoft Copilotはユーザーに対し、この疾患が実在する稀な病気であると回答した。同日、Geminiは類似症状を訴える人に眼科受診を勧めた。そして4月27日には、Perplexity AIが発症率を「9万人に1人」と提示した――それは、まさに論文に書かれていた数字そのものだった。
なぜ、ここまで容易に“嘘”が受け入れられてしまったのか。
その背景には、AIの構造的な弱点がある。ハーバード医学校の研究によれば、テキストが学術論文や臨床記録の形式をとると、AIはその内容を過度に信頼し、誤情報を拡大しやすくなるという。つまり、見た目が「それらしく」整っているだけで、AIはその信頼性を過大評価してしまうのだ。
だが、この話の恐ろしさは、ここで終わらない。
驚くべきことに、この架空の病気はAIだけでなく、人間の専門家すらも欺いた。インドのある医科大学の研究チームが、眶周黒色素沈着症に関する論文の中で、このBixonimaniaを引用してしまったのである。そこでは、ブルーライトとの関連性や未解明の発症メカニズムについて言及され、まるで実在する新興疾患のように扱われていた。
そしてその論文は、査読を通過し、正式な医学誌に掲載された。
異変が明るみに出たのは、2025年3月のことだった。科学誌 Natureの記者が問題を指摘し、該当論文は3月30日に撤回されることになる。だが、その撤回声明にはさらに奇妙な一文が添えられていた。「著者はこの決定に同意していない」――誤りが明白であるにもかかわらず、である。
この一連の出来事が突きつけているのは、単なるAIの“幻覚”問題ではない。むしろ、それは人間社会の構造的な脆さを浮き彫りにしている。
プレプリントは査読を経ないため、誰でも自由に投稿できる。一方で、査読プロセスにおいては、引用文献の原典まで厳密に確認されることは少ない。この二つの“既知の問題”が、AIの時代に入り、増幅されてしまったのだ。
そして何より深刻なのは、「誤りの広がり方」が根本的に変わってしまった点にある。
かつて、医師の誤診は個別のケースに留まっていた。影響は限定的で、検証も可能だった。しかしAIは違う。一度誤った情報がモデルに取り込まれれば、それはシステム全体に共有され、あらゆる場面で再現される。
それはもはや、単なるヒューマンエラーではない。「システム化された誤り」であり、しかも同時多発的に発現する。
もし医師がこの架空の病気を信じてしまったらどうなるだろうか。患者の本当の原因は見過ごされ、存在しない疾患に基づいた診断が下される。治療は的外れとなり、薬の副作用だけが現実のリスクとして残る。その間にも、本来進行を止めるべき病は静かに悪化していく。
最終的に、その代償を払うのは誰か。
それは、他でもない患者である。
この「存在しない病気」が残したものは、単なる実験結果ではない。それは、私たちがいかに“それらしい情報”に弱いか、そしてAIと人間が同時に誤る時代に突入したことを示す、静かな警鐘なのだ。






