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吐き気を感じたその瞬間、私は「私」に還る、AIが量産する「無感情な文章」との距離の取り方

AIに触れていると、時に説明のつかない「生理的嫌悪感」に襲われることがある。それは気のせいではない。むしろ、それこそが今という時代を生きる我々人間にとって、最後の防波堤なのかもしれない。

2025年、インターネット上に溢れるコンテンツの中で、ある言葉が注目された。「Slop(スロップ)」――英語で「豚の餌」「残飯」を意味するこの単語が、アメリカの辞書『メリアム=ウェブスター』によって「今年の言葉」に選ばれた。もちろん、皮肉を込めてのことだ。

ここでいうSlopとは、AIが大量に生成する、整ってはいるが魂のこもっていない低品質な情報のこと。きれいに構成されており、読みやすく、文法も誤っていない。それでも、それが「人間が書いたものではない」と感じた瞬間、私たちは体のどこかで違和感を覚える。それは単なる内容の批判ではなく、もっと根源的な拒否反応だ。

私は以前、AIの文章生成を積極的に支持していた。事実、ほとんどの原稿でAIの助力を借りてきた。人間の手では到底追いつかない情報のスピード、思考の補助、言語の整形。その全てが、AIにはある。しかし、ある時を境に、私は変わった。

理由は一つ。気持ち悪くなったからだ。

説明のしようがない不快感。理屈ではない。「正しい」ことが書かれていても、体が拒否するのだ。滑らかに構成された文章が胃の奥にずしりと沈み、胸の辺りに嫌悪の塊としてせり上がってくる。それは、「これは人間ではない」と、本能が警告しているのだ。

この現象は、単なる感覚の問題ではない。むしろこれは、今の時代において我々が保つべき「免疫システム」なのだ。


AIの生成物は、往々にして過剰に整いすぎている。LinkedInで目にするAI返信は一様に「貴重なご意見、参考になりました」と語り、SNSの宣伝投稿は一律に「マジで神アイテム!」と叫ぶ。YouTubeのAIナレーションに至っては、呼吸と抑揚すら完璧に「最適化」されている。

そうした滑らかさは、ある種の快適さを生む。しかし、その快適さが実は「同化」への第一歩であるとしたらどうだろう?
それは、
『リック・アンド・モーティ』に登場するハイブマインド生命体・Unityのようなものかもしれない。全ての人間が一つの意識に統合され、争いも差別も孤独も消え、誰もが同じペースで生きている。心地よいが、何かが欠けている――そう、「個の輪郭」だ。

そんな社会の片隅で、私たちは問われている。
「あなたは本当に、あなた自身ですか?」
もし言葉も感情も、AIが生成したSlopに馴染んでしまったら、自分の内面はどこへ行くのか。

この滑らかな内容を、疑問も抱かず飲み込んでしまえば、それはかつてニューヨークで起きた「残滓牛乳事件」と何が違うのだろう。1858年、酵母工場の廃棄物である酒粕を牛に与え、そこから搾乳された青白く不自然なミルクに石膏や砂糖を加えて、まるで「より美味しそう」に見せかけた。それを飲まされた幼児たちは、毎年数千人単位で命を落とした。

子供たちは、それが毒であると分からなかった。ただ甘く、美しく、安心感があったからだ。
それは、今の我々が抱く「Slop」の魅力とそっくりではないか。


「吐き気」こそが、最後の防衛線である。

生理的な嫌悪感。呼吸が止まり、眉間にしわが寄り、口角が下がる。それは野蛮でも弱さでもない。むしろ、進化が我々に与えた「センサー」なのだ。

心理学者によれば、「Core Disgust(中核的嫌悪)」は人類が最も後に獲得した感情のひとつであり、病原体や腐敗、欺瞞から身を守るための最前線であるという。腐った肉を食べないように、我々は腐った言葉にも反応する。
それは、「これは違う」「これは受け入れられない」という強烈なNOだ。

そして、「拒絶」こそが、個を証明する行為なのだ。

サルトルは『嘔吐』の中で、「存在の不条理さ」による嫌悪を描いた。言葉や概念が意味を失い、ただ「そこにあるだけ」の世界を前に、人間は嘔吐する。まさに今、AIによって生成された無数の「意味のない情報」に囲まれた我々も、似たような状態にある。

もう一度、我々は「選ばなければならない」。

便利さ、効率、整合性――それらに抗ってでも、「不快感」を感じることを忘れずにいたい。大量生成されたコンテンツに囲まれても、「これは読まない」と決める力を持ちたい。「これは気持ち悪い」と言える勇気を失いたくない。

それが、私たちが「人間」であり続けるための最後の証なのだ。


この2025年の混沌のなかで、テクノロジーがもたらす滑らかな世界に私たちは生きている。しかし、その一方で、滑らかであればあるほど、どこかに「ザラつき」が必要なのだ。それはまるで、完璧な人工皮膚に触れた時の不気味さ、いわゆる「不気味の谷現象」にも似ている。

整っていればいるほど、「違和感」は際立つ。

そして、その違和感を「忘れない」ことが、私たちがAIに同化されないための最後の砦なのかもしれない。
私は今日も、あの奇妙に整ったSlop記事に目を通して、そっとブラウザを閉じる。そして思うのだ。

「吐き気を感じる私は、まだ私でいられている」と。

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