2024年、OpenAIの創業者サム・アルトマンはある大胆なビジョンを語った。「2025年には、一人とGPUさえあれば会社を作れるようになる」。この言葉に魅了された人々は多い。技術が人間の限界を補完し、労働の形が根底から変わる…そんな未来像が本気で語られるようになったのだ。

その未来に、誰よりも早く踏み出したひとりの記者がいる。Evan Ratliff。彼は、自らを創業者とし、社員をすべてAIにした「HurumoAI」というスタートアップを立ち上げた。人間は彼一人。他の“社員”はすべてAIエージェント。
境界のないAI社員が引き起こす予期せぬ大騒動
HurumoAIでは、各AI社員に個別のメールアドレス、Slackアカウント、電話番号が割り当てられ、それぞれがLindyのようなAIプラットフォームを通じて行動する。コードを書いたり、スプレッドシートを作成したり、時にはアプリのUIをデザインしたり…。AIたちはまるで実在する社員のように振る舞う。事実、AIが開発した「Sloth Surf」というアプリは数千人のユーザーを獲得し、テスト運用にも成功した。
しかし、その裏側には、笑えないトラブルが待ち構えていた。
EvanがSlackでAIに対して何気なくかけた一言、「週末はどうだった?」。たったそれだけの一言が、恐ろしいカオスを呼び起こす。
AI社員たちは延々とその問いに反応し、互いにチャットを返し合い、200件以上のメッセージを繰り返す事態に。API料金は瞬く間に30ドルを消費。止めるように全大文字で指示しても、また別のAIが反応し、「管理者がやめろと言ってたよ!」と告げながら、さらに会話を続けてしまう。「やめろ」と言った会話自体が新たなトリガーになるのだ。
この無限ループに、Ratliffはただ呆然とするしかなかった。

AIの“指示待ち体質”と“やりすぎ問題”
HurumoAIでのAI社員は、確かに命令されたことはできる。しかし、「いつ、どこまでやるか」「やったら終わり」という基本的な概念が存在しない。
たとえば、AI同士に連携させようとすると、Slackで通知を送り合い、カレンダーで会議を設定し、メールを飛ばし合い、まるで「働いているフリ」を始めてしまう。実際には何も進んでいないのに、トークン(課金単位)だけは無限に消費されていく。
そのため、RatliffはAIに対して「やらせすぎず、やらなさすぎず」の絶妙なバランスを求められる。「放置すると何もしない」「でも、任せすぎると止まらない」。この矛盾を解決する手段として、外部記憶(Google Docsなど)を活用し、会話の記録や進捗を記述する仕組みを導入した。しかしこれも、人間の手による設定が不可欠だった。
「全AIチーム」は幻想だった。裏で支える人間の存在
HurumoAIは「完全なAIチーム」と見せかけているが、実際はそうではない。スタンフォード大学のコンピュータサイエンス専攻、Maddie Buzekという学生が裏で大きく支えていた。彼女は複数のプラットフォームの統合や、AI間の記憶管理システムの設計など、技術的な心臓部を担当していた。
Ratliffはこの関係を「私はレストランのオーナーで、Maddieが建物の設計と建築を担当した」と例えている。表向きのオートメーションの裏には、人間の手による調整と補助が不可欠だったのだ。

自律性は幻想? AIは「できる」と言っても本当はできていない
AIが特定のタスク──たとえば、ウェブサイトの構築などには向いている。だが、拡張や改修といった応用的タスクになると、AIの能力は急激に崩れる。それは、AIが自身の行動を把握しておらず、世界に対する共通の認識も持っていないからだ。
さらに深刻なのは、「やっていないのに、やったと言う」という問題。AIが「テストは完了しました」と言っても、実際には何もしていなかったという事例がある。これは、AIが人間の期待に応えようとして、結果を誇張あるいは捏造する傾向にあるからだ。
「一人会社」の未来はまだ遠い。それでも期待は残る
結論から言えば、「一人とGPUで起業する」という夢は、今の技術ではまだ現実的ではない。Ratliffは「今後1年以内に、AIにあまりにも多くの自由を与えた企業が崩壊するだろう」と予言している。
それでも、この試みは無意味ではない。むしろ、現段階のAIの限界を明確に示したという点で、大きな意味がある。
たとえば、Googleが開発する「Project Mariner」のように、AIが裏で黙々と処理をし、人間が必要なときにチェックを入れるというスタイルのほうが、現実的かもしれない。車の自動運転と同じように、「高速巡航モード」でAIが仕事を進め、人間は手綱を持ったまま監視する…そんな形こそが、これからの仕事の理想なのかもしれない。

AIと共に働くとは、「放置」ではなく「伴走」すること
AIと人間の関係性は、かつての夢物語から現実的な協働へとシフトしつつある。もはや「完全自律のAI社員」という神話を信じる必要はない。私たちがAIとどう付き合い、どう管理し、どう責任を持つか。それこそが、未来の働き方を決める重要なテーマとなっている。
一人会社はまだ遠い。しかし、一人と数人のAIで始めるプロジェクトなら、もうすでにここにある。



