かつて「AI時代のiPhone」と評され、発売からわずか4日で10万台を突破したという驚異のセールスを記録したAIデバイスがあった。しかし2025年11月、その輝かしい栄光の裏で、ある企業は資金繰りの悪化によってついに崩壊してしまったのだ。この出来事は、2024年以降中国を中心に沸き起こったAIハードウェアブームが、勢いだけではなく、質的な課題を抱えていたことを象徴している。
その象徴的な存在が「Rabbit R1」である。Rabbit R1は、AI搭載ハードウェアとして市場に登場し、まるで新時代の幕開けを体現しているかのように受け止められていた。しかし、現実は期待とは異なった。過度な宣伝と誤ったポジショニングが裏目に出て、ユーザーの期待値は極めて高く引き上げられてしまった。結果として、製品の実力がその期待に追いつかず、異常に高い返品率と悪評が製品評価を引き下げた。そして、わずか26人の小規模チームは資金と信用を失い、給与の支払いにすら窮する状況に追い込まれたのである。
こうした光景は決して「ひとつの失敗例」ではない。中国・杭州のあるAIハードウェア販売店を取材した際の体験談は、まさに現場の空気を反映している。399元(約9000円)から1499元(約33700円)という比較的手頃な価格帯のAIデバイスは数多く並んでいたが、実際に触れてみると、どれもが「コンセプト先行で中身が伴っていない」という印象だ。音声インタラクションは一貫性を欠き、視覚認識機能も記号的に「読んでいるだけ」という程度で、高度な対話や直感的な反応は期待できなかった。こうした体験は、スマートフォンのAIアシスタントと比べてみると余計に差が鮮明になる。
しかし、こうした状況下でも、多くのベンチャー創業者や投資家は、AIハードウェアがこれからの大きなチャンスであると信じて動き続けている。それは一時的なブームではなく、「新たなインタラクションの形とユーザー体験を創り出す可能性」がまだ残されていると考えているからに他ならない。その代表例として、2025年6月に発売された「fuzozo(芙崽)」が挙げられる。この製品は、パッケージングに工夫を凝らし、いわば「AI版トレンドトイ」として市場に受け入れられ、発売直後に数千台を売り上げ、半年前後で合計20万台に到達した。製品そのものの技術力以上に、ユーザーが「楽しい」と感じる要素を前面に打ち出す戦略が功を奏した。
ここで重要なのは、単なるAI搭載というだけでは不十分だという現実である。ユーザーが実際に利用し、感動や驚きを得られる体験を提供できなければ、どれほど資金が集まりビジネスモデルが話題になっても、定着には至らない。AIがもたらす新たな価値は、単なる技術の集合ではなく、人と機械の間に生まれる生活体験の質の向上にこそ存在する。
AIハードウェア熱狂の原点──投資と創業者たちの信念
Rabbit R1の挫折が示すように、AIハードウェア市場は容易に成功できる場所ではない。それでも、ある投資家・創業者はこの領域を見捨てていない。彼女の名前はSilvia。長年ハードウェア投資に関わってきた彼女は、ブームの中心であるこの分野を冷静に観察しながらも、「ここから生まれる変革は本物だ」と語る。
Silviaは2024年10月、米国シリコンバレーで開催された小規模なエンジニア・投資家の交流会に参加した。この場にはApple、Meta、Google、Microsoftといった大企業のエンジニアのみならず、李開復(Kai-Fu Lee)などAI界隈で著名な人物も顔を揃えていたという。会のテーマは今後のAIインタラクションの進化についてであり、そこで語られた「2025年の中国で起きるであろう百眼鏡戦争(百鏡戦争)」という予測は大きな示唆となった。
この「百鏡戦争」とは、単に多くのAI搭載眼鏡が市場に出回るというだけではない。AIという新しいインタラクション方式を、従来のスマートフォンやパソコンとは異なる「身体的装着デバイス」を通じて体験させる試みである。Silviaは、AIが新たな“身体”を必要としていると強調する。すなわち、AIは情報処理だけではなく、ユーザーの日常行動や視覚・聴覚との統合インタラクションを通じて初めて新しい価値を生むと信じているのだ。
また、中国がこの変革の中心に立つ理由として、成熟したサプライチェーンと豊富なエンジニアリソースが挙げられている。中国のハードウェア産業は、部品調達から設計、量産まで一貫した強みを持っており、世界的な競争力を有している。それに対し、米国ではエンジニアの高齢化が進み、30歳以下の若手技術者の割合がわずか10%程度に留まっていると言われる。こうした人材構造は、大企業が革新的なハードウェアに積極的に挑戦する足かせとなる可能性があるという。
こうした背景から、資金はAIハードウェアへ集中し、2025年5月だけで、投資・融資額の約半分がこの分野へ流れ込んだというデータさえ存在する。大手企業のみならず、新興企業やスタートアップも次々とこの波に乗っている。
AIハードウェアの標準解は存在しない──成功と試行錯誤の道程
それでも、現時点でAIハードウェアの「標準解」は存在しない。伝統的なハードウェアは、具体的な問題を解決し、その性能や機能が明確に比較可能である。しかし、AIを搭載したデバイスはその価値が大規模モデルの進化やクラウド処理性能によって変動する不確実性を抱えている。つまり、従来のように「量産前に試作→クラウドファンディング→市場検証」という成功の道筋が通用しない可能性があるのだ。
面白い事例として、AI録音ペン「Plaud」が挙げられる。PlaudはKickstarterでの初期資金調達に成功しなかったにもかかわらず、その後2年でグローバル販売台数が100万台を突破した。この成功は、従来の投資ロジックを揺さぶるものであり、「プロダクトの可能性は投資額だけで決まらない」ことを示した。一方で、類似のAI Pinデバイスは期待された機能と実際のユーザー体験に乖離があり、ジェスチャー誤認識や操作学習の難しさ、音声反応の遅延などから販売停止に追い込まれた。
AIハードウェアという分野がこれほどまでに評価の振れ幅を持つ理由は、その価値が「完成した瞬間」に固定されない点にある。ハードウェアでありながら、その本質は常にソフトウェア、とりわけ大規模言語モデルの進化に引きずられる。つまり、今日完成したプロダクトが、明日には時代遅れになる可能性を内包しているのだ。これは従来の家電やガジェットの開発思想とは根本的に異なる。
取材の中で多くの創業者が口にしていたのは、「AIハードウェアは完成品として売るものではなく、成長し続ける存在として設計しなければならない」という認識だった。ところが、現実の市場では、その思想が十分に伝わる前に、ユーザーは“今この瞬間の体験”だけで評価を下してしまう。Rabbit R1に対する厳しい批判も、ある意味では必然だったと言える。ユーザーが求めていたのは未来への可能性ではなく、購入したその日から使える明確な価値だった。
その一方で、AIハードウェアの可能性を別の角度から捉え直す動きも静かに進んでいる。杭州の創業者コミュニティでは、「AIを主役にしないAIハードウェア」という考え方が語られ始めている。つまり、AIを前面に押し出すのではなく、ユーザー体験の裏側に溶け込ませる設計だ。ユーザーはAIを使っていると意識せず、結果として便利さや楽しさだけを受け取る。この発想は、かつてスマートフォンが“コンピューター”と呼ばれなくなった過程とも重なる。
実際、fuzozo(芙崽)の成功要因もここにある。購入者の多くは高度なAI性能を期待していたわけではなく、むしろ「かわいい」「話しかけると反応する」「日常に少しの楽しさを足してくれる」といった情緒的価値に惹かれていた。AIはあくまで裏方であり、ユーザーが触れるのは感情の部分だった。この距離感こそが、現段階のAIハードウェアにおける最適解のひとつなのかもしれない。
しかし、業界全体を俯瞰すると、楽観論だけでは済まされない現実も見えてくる。多くのスタートアップが直面しているのは、ハードウェアと大規模モデルのコスト構造の不均衡だ。高性能なモデルを使えば使うほど、クラウドコストは跳ね上がる。だが、そのコストを製品価格に転嫁すれば、消費者は離れていく。このジレンマは、現時点では完全に解消されていない。
投資家の間でも、評価軸は徐々に変化している。かつては「AI」「大模型」「新形態インタラクション」といった言葉だけで資金が集まったが、現在はより冷静な目が向けられている。問われているのは、そのプロダクトが日常のどの瞬間に、どれほど自然に入り込めるかという一点だ。技術的に優れていることよりも、生活に溶け込む設計ができているかどうかが、投資判断の分かれ目になりつつある。
Silviaはこの状況を「静かな淘汰の始まり」と表現していた。派手に登場し、話題をさらった製品ほど、期待値とのギャップに苦しむ。一方で、目立たず、しかし確実にユーザーの生活に根を下ろす製品は、時間をかけて評価を積み上げていく。AIハードウェアの第一波が退場しつつある今、第二波はより地味で、しかし現実的な形で到来する可能性が高い。
そして最後に、多くの関係者が共通して語っていた言葉がある。それは、「AIハードウェアの終わりは失敗ではなく、通過点である」という認識だ。今市場から姿を消していく製品の多くは、未来への布石であり、試行錯誤の痕跡でもある。失速や撤退は、この分野が本物へと成熟していく過程で避けられない痛みなのだ。
熱狂が去った後に残るのは、誇張のない現実と、地道な改善の積み重ねである。AIハードウェアは、もはや「夢のデバイス」ではない。生活の中で静かに呼吸し、気づかぬうちに人の行動を支える存在へと変わろうとしている。その変化を見届けることこそが、今この時代にこの分野を追う意味なのかもしれない。



